杉並区の小説ゆかりの地を辿る(第1回「サマーバケーションEP」と神田川)

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さまざまな小説やエッセイの舞台となっている杉並区。今回から、お薦めの1冊をとりあげてご紹介しつつ、その舞台を辿るシリーズを掲載していきます。

第1回は、「サマーバケーションEP」(古川日出男/著 文藝春秋)。杉並区のどのエリアがどのように登場するのか、ストーリーに沿って見ていきましょう。

物語のあらすじ

この小説は、生まれつき人の顔を憶えることができない「僕」が、20歳を過ぎてようやく自由行動を認められるというもの。道中で出会った人々とともに、井の頭公園にある神田川の源流から川沿いを歩いて、川の終わり、つまり海を目指す物語です。

人の顔を認識できない代わりに、色・匂い・音・温度などには極度に敏感な「僕」の目線から描かれているのが特徴で、同行者たちもそれぞれが強い個性と輝きを放っています。「透明な目」をした「僕」から世界を眺めた驚きと無垢さに満ちた物語です。

物語の舞台

杉並区では、神田川に沿って、宮下橋公園や久我山駅、高井戸駅、杉並清掃工場、永福中央公園、方南橋などが登場します。

実在する地名・駅名、橋や公園などが多数出てくるので、本と地図を携え、主人公たちが歩いたルートを散策するのにぴったりです。

1)杉並区内の旅の始まり

ウナさんは僕がたしかめた<みすぎ橋>の標識の、ほんのすこし離れた場所に立った看板を見ています。
 そこには、市境と区境が表示されています。
「中野区まで、七・七キロ、三鷹市まで、0キロだって。つまり、ここが境界だって」とウナさんが言います。
「ここは?」とカネコさんが訊きます。
「ほら、この看板立てたの、杉並区の土木課。だから――」
「杉並区ですね?」と僕が訊きます。

引用元: 「サマーバケーションEP」 102ページ

井の頭公園を起点に三鷹市内を歩いてきた主人公たち。23区内に入ったことを意味する標識が現れ、中野区まで7.7km、杉並区内小旅行が始まります。主人公は、ここから進む住宅街と神田川に挟まれた遊歩道について、井の頭公園を出た直後とは「佇まいの匂いが全然違う」「路地のようなもの」と表現しています。

2)久我山駅前での待ち合わせ

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久我山駅前の、神田川に架かっている、橋の上です。そこには、ふしぎな表示があります。舗道に、地図が描かれています。石畳を模した巨大な円のなかに、北、西、東、南、を示した地図があります。そこでは、世界の中心が久我山です。

引用元: 「サマーバケーションEP」 119ページ

久我山駅前の久我山橋上に描かれている地図。駅の経度、緯度、標高のほか、駅周辺半径1kmの地図に加えて、日本各地の有名観光地までの距離や方向が記されています。

久我山橋上には人見街道が走るため、周辺は賑やかで、少しの間、左岸と右岸の歩道の高さが変わります。右岸と左岸で雰囲気も異なる、おもしろい区間です。

3)杉並清掃工場の煙突

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「塔!」と子供が叫びます。
「でけー!」と子供が叫びます。
「近づいてるー!」と子供が叫びます。

引用元: 「サマーバケーションEP」 130-131ページ

久我山駅を越え右岸を進むと、「錦橋」を過ぎたあたりから、灯台のように白い「塔」が見えてきます。歩いてきた遊歩道は環状八号線にぶつかり、主人公たちは、目印として歩いてきた「塔」が杉並清掃工場の煙突であることを知ります。ちなみに煙突の高さは約160m。23区内では、豊島区・中央区に続いて3番目の高さを誇ります。

4)ミスド高井戸店で休息

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それから僕たちは高井戸の駅前のドーナツ屋さんにいます。<ミスタードーナツ>の高井戸店です。禁煙席に、僕たちはいます。そこで僕たちは、おじさんの言葉に甘えています。おじさんの一万円を使って、僕たちはおやつにします。カネコさんが、おやつなら、そこのミスドだね、と言ったので。

引用元: 「サマーバケーションEP」 137ページ

井の頭公園を出発してから初めて、ここで休憩を30分以上にわたってとる主人公たち。具体的な注文メニューと併せ、歩き続けてきた疲れについての表現が登場します。店内の騒がしさや冷房の心地よさ、疲労の度合いが、「僕」ならではの独特の言葉でいきいきと表現されています。(138~139ページ)

5)永福中央公園での予期せぬ再会

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遊歩道の左手に、公園があります。公園の入り口があります。僕は公園の看板を読みます。名前を――どんな公園にも名前が付いているからです。
それは<永福中央公園>です。
入り口に、人間が腰かけるための石……石の椅子が四つ、あります。並んでいます。
三人が座っているのが、わかります。
「ねえ」とカネコさんが言います。
「はい」と僕は訊きます。
「おじさんだよ」

引用元: 「サマーバケーションEP」150ページ

神田川左岸に面し、親水設備も整った永福中央公園。主人公たちの疲れは更に増し、「歩きつづけるのは1つの慣性」といった記述が印象的です。この公園で、主人公たちは、高井戸でいったん別れ、全員に帽子を用意してくれた「おじさん」と再会。新たに双子の女性が一行に加わります。

6)小僧の像

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へその女の人もベンチには腰を下ろさずに、銅像のほうをむいて、その小僧だか何だかの後頭部をぺとぺと叩いています。

引用元: 「サマーバケーションEP」159ページ

柱頭に腰かけた小僧の像。総計11人に膨れあがった参加者が休憩をとるのはどんな場所だろうと、イメージが膨らむシーンです。

この物語の読み始めでは、主人公の「僕」の感覚が、一般人とはずれていることがどうしても気にかかります。しかし物語を読み進めると、香りや音、言葉の響きといったものに対する「僕」の鋭い感覚を通して世界に接することが、読者にとっても普通となってきます。この場面で、双子のやりとりは10ページにわたります。顔では見分けのつかない双子の二人ですが、嗅覚や音感の鋭い「僕」にとってはいとも簡単に識別できることに、読んでいる我々も引き入れられます。

7)ひまわり橋

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カネコさんは、柵に張りつけられたプレートを指しています。橋の、柵です。らんかんです。
「あった」とカネコさんが言います。
僕に、言います。
あった?
僕は、見ます。プレートを見て、僕は、読みます。カネコさんが指しているプレートの文字を、白地のプレートに緑色の文字を。それは橋の名前です。そこには<ひまわりばし>と書かれています。
 ひまわりの、橋と。

引用元: 「サマーバケーションEP」 175~176ページ

カネコさんは、井の頭公園に登場した時、度重なるリストカットの後で、世の中に希望を見いだせず、「僕」いわく「声の体温」が33℃しかない死の状態にありました。しかし皆とともに歩くうちに、少しずつ回復。「リンリツしたひまわりを見たい(84ページ)」という願いはこの「鉄筋コンクリのひまわり」橋で実現し、彼女の体温は35℃にまで回復します。「あたし、生き返っちゃうじゃん」という笑いが、物語に一層の明るさを添えます。

杉並区内の旅の終点

環七をすこし離れると、神田川の左岸には市境と区境を表示する看板が現れます。三鷹市までは七・七キロ、そして中野区までは0キロ。つまり、そこが境界です。そして看板じたいは、なぜだか杉並区の土木課が立てています。たぶん、ここは杉並区と中野区の境界でもあるのです。

引用元: 「サマーバケーションEP」 173ページ目

起点と同様、杉並区内の神田川沿いをたどる小旅行は、区域表示板をもって終了します。

実際に杉並区内のルートを辿ってみると、川岸の道はほとんど歩行者道路(自転車通行可)となっており、人通りも少なく、散策には絶好のコースといえます。

読後感を味わいながら、今ならではの季節を満喫しに出かけてみてはいかがでしょうか。

(取材・執筆/山中悠)

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